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timupo.jpg 足先の5本の指を一本ずつくるむタイプのラバーストッキングを履いた爪先で、殿方の勃起してはち切れんばかりになったチンポを挟みゆっくり扱き上げる。
 足の親指と中指を広げ、そこに雁首の下辺りを乱暴に挟むだけだから、手とか口とかの巧妙な刺激に叶うはずがないんだけど、殿方は結構感じるみたい。
 勿論、このゴムを使った変則足コキの前後には「あたしのこーんな汚い足でいっちゃうのかい。あんた相当な変態だねぇ」とかの言葉責めとか、ローションでぬるべとになったchikaのラバー太股で殿方の股の間をラブマッサージしたりとかするんだけど、他の女の子に聞くと、そんな前技抜きで、蒸れたブーツから抜き取ったばかりのホントに汚い素足で足コキしないと満足しない殿方もいるんだとか。
 まあそう言ったm男君の気持ちは容易に想像は付くんだけど、プレイに入る前に身体の内部まで色々と洗浄をしてプレイに望むchika達「やるほうの」立場になると、意外と抵抗があったりする。
 足コキされながらchikaのペニクリに手を伸ばして一緒に逝こうと画策する殿方の手の動きをやんわり制御しながら「人間って気持ちよくなる為に色んな工夫をするんだ」などと妙に冷めた事を思ったりする。
 って事で、今日はSM行為に登場する小道具や大道具、、あるいは装置についての考察。

 最近のSMプレイって、情報伝達の波に乗って、急速にバリエーションを増やしながら増殖しつつあるような感じがするんだけどどうだろう。(ってもSMプレイを体験した人ってそんなに多くないか。個人内SMプレイもchika達、風俗プレイも、どの形がSMって一概に言えなくなってるし)
 勿論、多様化拡散するエネルギーのコアは、たった一つ、何をどうしたらより多くの(あるいはより深い)快楽が得られるかという欲望だと思う。
 たとえば、ドライオーガスムスなんて最初に見つけだした人の快楽追求のライフスタイルはどんなだったんだろう?と考え込んでしまう。
 エネマグラの仕様なんかを見ると、単なる思いつきや理論の域を越えてて、実践者でないと考えつかない代物だしね~。
 お手製のアナルプラグを、下のお口にくわえ込んだまま、うたた寝でもしてしまったのだろうか?
 ・・そしてあれだけセンセーショナルに登場したエネマグラも、今では衛星都市の貧相なアダルトショップの棚に当たり前のように飾られてるのが凄い。
 ボンデージプレイのバリエーションも同じこと。それこそインターネットの影響力は計り知れない。例えばバキューム・ベッド。ラバー後進国の日本のフェチシーンからバキューム・ベッドなんて決して生まれないこない。
 エピキュリアンにとっては非常に強力な情報源であるインターネット。中にはこんな中世の拷問器具まがいのものまで登場する、でもこんなのはヤダ。4.jpg
 生理的抵抗感があるものを相手に押しつけると、それがある時点で逆転して「快」に転化するみたいな思いこみが一部の快楽追求者にあるみたいだけれど、それは違う。それには基本的にお互いの合意なり信頼関係が必須にある。 それを前提としないのなら、視姦者特有の妄想サディズムに過ぎない。
 chikaはこういうものがSMプレイの小道具として上陸するのを畏れている。
 って言うか、これって町工場の設備を借りれば簡単に作れそうだから、どこかの馬鹿が作ってしまいそうで凄く怖い。こんなのを装着される女性(男性)の立場になって欲しいものだ。いくら信頼関係があってもヤダね。
 自分の顔が苦悶に醜く歪むのも、己の美に自信のある女にとっては一つのアピールだと思いこむことが出来るけれど、こんな金属球で頭部を密封されたんじゃ恐怖しか感じない、ここまでするのは別の領域。
 ラバーでこれと同じ球形のものがあるけれど、あれには顔面への圧迫という機能があってそれに快楽を感じる可能性はある。これは只の不細工な鉄仮面にしか過ぎない。
 何処の誰が、この金属の球形の上から愛する人の唇を想像してキスが出来るのだろう?この球形の中に隠されている頭を想像して金属球を撫で回すことが出来る人間がいるのだろうか?chikaはこういうボンデージギアが大嫌いだ。
 現実的に考えると、拷問とSMプレイの境界線は「愛」や「信頼関係」だけじゃない。
 視覚を中心とした性的ファンタジーに溺れやすい人は、すぐに現実を飛び越えちゃう傾向が強いから注意してね。


chikaar13.jpg 「愛」と「信頼関係」が絡むSM装置がテーマの映画もありますね。
 chikaの超お勧めは水谷俊之監督・清水美砂主演の「人間椅子」。

 この作品、原作江戸川乱歩の「人間椅子」を忠実に映画化してるわけじゃない。(てぇいうか乱歩の醸し出す猟奇的雰囲気とプロットだけに惹かれて映像化した作品にろくなものはないのだ。)
 水谷俊之版の「人間椅子」を、一言で表現すると「男と女の調教物語」だということになる。そしてこの物語の最も重要なファクターは「触覚」なのね。
 少しだけ映画の内容に触れときます。
映画の冒頭、、、國村隼演じる外交官・篠崎昭一郎がホームパーティで腹話術を披露する。「腹話術の人形と操り手、どちらが主人か?」よくあるネタだ。
「俺がいなきゃ、本当の事を何にもしゃべれないくせに、、」「人形のお前に言われたくないね。」「じゃ、お前から喋って見せろよ。」
 三分以上もあらぬ方向を見て喋らない二人の沈黙が続く。見守る観客の心に不安が広がり始めた頃に、突如、二人は吹き出す。
 この冒頭の逸話が夫・篠崎昭一郎と妻の佳子との関係を総て物語っているワケ。
 佳子は潔癖症の美しい女流小説家。昭一郎との関係はセックスレスという程ではないが、その肉体関係は義務的なものにしか過ぎない。そんなある日、佳子の元に奇妙な手紙が送りつけられる。人間椅子となった男の「触覚愛」の告白文だ。
 『視覚で認識しない異性の身体は、、「体温や重さ、匂い、肌触り」つまり肉の塊としてしか認識出来ないのです、そしてその感覚を甘受する愉悦と言ったら、、奥様私は貴女を、、。』
 佳子の官能は、自らの潔癖性を反転させるかのように、人間椅子の感覚に激しく感応していく、、。だがそれは。
って感じ。
chikaar12.jpg この映画の映像としてのキーワードは「手袋」。潔癖性の佳子は初めの頃、布製の手袋を付けて原稿用紙に向かうような女だったが、椅子人間との出会いによって、その手袋を夜の闇の中で焼いてしまうようになる。
 更に佳子は、その淫靡性ゆえに身につける事を拒否していた革のロンググローブを填めて、夫を誘うようにもなる。
 まあそんな感じ。この辺りのフェチ感覚は革フェチ、なかんずく革手袋フェチの方にはよく理解出来ることだろうと思う。

 「人間椅子」の映像キーワードが「手袋」なら、メインモチーフは「遮断と融合」。
 内にドロドロとしたマグマのような欲望を抱えながらも、自らに架した「潔癖性」という枷の為に分裂しかけた佳子を人間椅子は解放して行くんだけど、その手法が「遮断と融合」ということになる。
 具体的には、紗で遮断されたセックスや、一枚の革を隔てた包容であったりする。
 物語の後半では「目隠し」も、触覚を増強させる為の「遮断」として利用され、それによって佳子は、他の肉体と融合できるようになる。
 「遮断と融合」って矛盾している様に思えるけど、これこそラバーエンクロージャーの本質だと思う。
 一時のシネマジックのラバーAVでは「ラバー調教」というプロットが何度も繰り返されて使用されていた。
 初めは嫌がる女性にラバーを無理矢理に着用させ、セックスと関連づけさせながら官能に通じる新しい皮膚感覚を開発して行くというパターンが多かった。
 chikaには物足りないんだけど、映画「人間椅子」では、佳子がレザー仕様の全身タイツのようなものを身に纏って官能の縁に沈みそうになるシーンが一瞬だけ映るものの、レザーやラバーと言った具体的なギアへの倒錯はない。
chika0007.jpg もっともこれは昭和初期という時代背景を考えれば当たり前のことかも知れない。
 又、江戸川乱歩原作でラバーやレザーまで登場させるような事をすれば映画としては完全な逸脱だろう。
 けれど水谷俊之監督はラバーやレザーあるいはゼンタイといったフェチの存在を絶対に知っていると思う。
 つまり「遮断と融合」でしか飛べない「愛」がこの世には存在する事を知っているか理解してると思う。
 今度、倶楽部でプレイに使う人間椅子の予算計上してみようかな。シートは間に空気を入れて膨らませる二重構造ににして人間椅子に入り込む殿方は圧縮と、椅子に座る女王様の体重を同時に感じられるってゆーのはどうだろう。
 でもチンポの周りだけは穴あけとかないと受け悪いだろーなー。なんたって本気フェチじゃない人が多いんだから。

 人と動物を違える定義が幾つかあるらしい。一番有名なのが「火を使う動物」説。その他に言葉を話すだとか、どれもなるほどと思わせるものばかりだけれど、「道具を使って性感を拡張する」動物ってゆーのはどうだろう(笑)。

 

143wwd00004ps.jpg熟女レズ センズリ狂ふたなり姉妹

発情の抑えられない淫乱ふたなり姉妹のぐっちょりレズ!毎日猿のようにマラばかりシゴいている長女・真希に下されたドクターストップ!しかし絶倫チ○ポは精子でパンパンになっていくばかり…。「頭ではダメだと思ってるのに勝手に動くあたしのチ○ポはダメ男君。あぁ、もう我慢できない!センズリぶっこきたいようッ!!」