「ナスティ・サンチェス」ってスラング知ってる?
これ教えて貰ったんだけどアナル・セックスの最中に抜いたペニスを相手にくわえさせると口の周りにウンコのヒゲができる、という意味のスラング。
プレイの為に洗浄からなにまで準備万端整えるchika達からみると笑えるような笑えないようなビミヨ~な表現だけど、それなりの人がマスに乗っけると一発アウトだろうな(笑)。
今日は亡くなられた中島らもさんの遺作となった「DECO-CHIN」の話から。
この作品は井上雅彦・監修 の『蒐集家』に収集されているのだが、中で井上氏は「≪異形コレクション≫の三十巻目の区切りに相応しい、伝説となるべき作品である。」と述べている。
chikaからするとそんな評価は、らもさんの力を見くびっているように思えて冗談じゃないと言いたい所なんだけれど、他の書評を見てもこの作品が遺作となった為か、結構評価が高かったりする。
正直言って、「DECO-CHIN」のインモラルぶりが、出版界のギリギリラインに近いのだろうと思うけど、この程度の奇想など、らもさんにとっては手慰みのレベルの筈だ。
この作品のモチーフは自己奇形化、自己傷害者・人体改造。
主人公はアンダーグラウンドカルチャー雑誌の服編集長ということなのだが、この雑誌、どう見てもバーストのこととしか思えないのがおかしい。
「DECO-CHIN」の中でらもさんは自己奇形化に向かう衝動の源泉を下のように分析してる。
「彼らは外の人間であることを訴求しているんだと思うよ。奇形であればあるほど、世界で類のない存在になってく。だから人体改造はエスカレートしていく。」
自己奇形化と反体制を結びつける必要がそれ程あるとは思えないけれど、世界で唯一無比の存在であろうとする欲求と自己奇形化の関連については共感する部分が多い。
又、それらが極度なマゾヒズムの変形だとするのも判るような気がする。
chikaが見ている限り、マゾの子達はどうやら精神と肉体を分離することによって自己実現を計っている節があるからだ。
自分が自分であるという感覚をこれほどまでに苛烈に求めなければ行けない時代や文化・文明は相当病んでいる気がするけれど、誰も時代を飛び越えられない以上、それは考えても仕方がないことだ。
本来の自分であるために、それぞれなりの方法論で生きて行くしか仕方がないのだ。
そして幸か不幸か現代人は己の欲望を現実化させる「技術」をありとあらゆる分野で進化させている。
後は本人がどれだけ「逝って」しまうかである。
そういう意味で、美容整形の繰り返しの果てにもはや「怪人」になってしまったマイケル・ジャクソンは一種の「聖なる人」なのではないかと思う。(ある意味、ファキールムサファーを超えている?)
最近、彼の施術に当たった美容外科医師によれば、ジャクソンは「黒人男性」から「白人女性」になりたがっていたのではないかということだ。
性転換手術は可能でも「性を転換」することは不可能だ。結局の所、ジェンダーフリーと言いながらジェンダーに準拠しなければ、誰もこの文明社会で「立って生きる」ことは出来ない。
この壁を知ってや知らずやマイケルは、人種を越え、性別を越え、「本来の自分」との一体感を求めて整形し続けるのだ。彼を聖人と呼ばすしてなんと称そう。
注; 今日のサイト紹介ではちょっと精神的なショックを受ける人が多いかも、、リンクを辿る場合は総じてフォト・グラファーサイトが結構スタイリッシュに対象を撮っているので最初はそこから回られることをお勧めします。(ってか嫌だと思ったら見る必要はないです。)
chikaはジョンコブ氏のガラス作品のサイトが凄く気に入りました。個人的に「内蔵ガラス」と命名しました、凄いです、、、。
全然、本文と関係ないけど今日のオマケ
たしかに中島らもの言うことは至言だと思います。類い希なるものへの欲求、過剰なる装飾の一環として肉体改造はあると思います。
ただ、マゾの肉体改造にはもう一面があるのではないかという気がします。それは非人間化への欲求です。人間であることが重すぎる、あるいは操作されたい、そのような欲求の現れとしての肉体改造もあるのではないでしょうか。それも人の外へという点では中島らもの言ったことと共通してはいますが。
聖なるものは人の外にしかあり得ません。肉体改造は聖遺物への、列聖への欲求なのでしょう。
白人女性になりたかったマイケルは、黒人男性という「下」の存在から欲望され仰がれ見られる「上」の存在へと上昇したかったのかもしれません。その意味では彼は列聖されたかったのでしょう。これは一見、人の外へという肉体改造欲求とは別の、あくまで人の中での出来事に見えるかもしれません。しかし白人女性というセックスシンボルは人の中でのものではなく、人の外の聖なるものです。上なのです。ですから、彼も人の外へでたかったのでしょう。