1588c1de.jpg 人間の足というものは、じっくり眺めると実に奇妙な形をしている。

 手ほど指が長くなく、その指にしたって常に靴の中に押し込められているから曲がってい たり、その指の付いている本体は甲高な肉棒の末端にしか過ぎない、、人間の全体重を四六時中引き受けているのだから、「足」がその役割に特化した形状にな るのは当たり前の事で、更に、地面に常に接触しているので清潔というイメージも少ない。

 手が「陽」なら足は「陰」という所だろうか。
そのせいでもないだろうけれど、同じ肉体部位へのフェチでも「手フェチ」は、何故か高級な感じがするし社会認知上の市民権もとりやすそうだ。
 で当然、足フェチは、手フェチに対してエログロの範疇にある。

 「足を舐める男」は、岡田ユキオの漫画「Leg Lover theポチ」を国沢真理子の脚本で中村和彦監督が撮った作品である。
 ちなみにchikaは原作の絵柄が好みじゃないので、ちらちらとつまんだ程度で殆ど読んでいない。
 映画の内容は、自分の足に欲情する男を捜し求める女と、足にしか欲情しない男、そんな2人がめぐり逢うまでを描くエロチック・ラブストーリー。
 映画自体は標準的な出来で可もなく不可もなくだけれど、ポチを演じる草野康太君のサッキングぶりには脱帽。
 大竹一重演じる麻葉のつま先の指を実に美味しそうに四六時中舐めまくっているんだから、いかに役者といえど凄い熱演だ。
 それにこの映画、映画自体は平均的な出来だけれど、フェチ考察者にとっては面白いテーマが一杯含まれている。

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 例えば、映画の冒頭で女性の素足見たさにプールの監視員になっていたポチが、彼に好意をよせる同僚の女性とのセックスの場面。
 初めは、己の変態ぶりを相手に気付かれまいと一生懸命ピストン運動に邁進するポチなのだが、そのうち高まってきて堪えきれずに相手の足をべろべろとサッキングしてしまう。
 で、結局「気色悪い」と詰られてベッドから蹴落とされるのだが、その時のポチの捨て台詞が「コーマン舐めると喜ばれて、足を舐めると変態かよ。」・・・うーんコレは性行為の社会的認知度の問題も含めて、とっても面白い言葉だ。
 一昔前までフェラなんて大変態の所行だったのに、今はなんて事ない。
 でも一応、ペニスもコーマンも性器だから「相手に快感を与える直接的な行為」として許容されるのかも知れない。
 しかし「性器以外が変態」というなら、指を舐めたり耳を舐めたりの行為も該当する筈だけどこちらはもお咎めはないしなぁ。
 もうちょっとディープになると「脇の下」も「鼻」も「肛門」だってナメナメOKでしょ、、足が次ぐらいかぁ、、。

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 やっぱ清潔感と関係するんだろか?
 それもどちらかというと、舐められる側の人間の中で、自分のその部位が不潔だと思ってる意識が過剰防衛するのかも。
 実際この映画の麻葉の場合は、最初自分の足について「こんな醜い不潔なものが自分の身体についていることが信じられない」って思ってて、それが足タレという職業に就いた途端に、足が性感帯に反転しちゃうという設定だし、、。
 それと次に面白いなと思ったのが、麻葉がポチの性癖の分析をしてみせるシーン。
 小さい頃に衝立の向こうに盗み見た男女の性交の場面でポチの脳裏に強く焼き付けれられた女性の足が、その興奮の強さ故に、幼い精神には性欲と食欲が混在した状態になり、ポチの性行動は、成人しても足へのサッキングとして定着したというもの。
 映画ではこのあたりを、強く興奮すると咳き込むポチの癖を指して、彼の喉には女性の足の爪が刺さっているという設定にし、それが刺さったのは性欲と食欲を勘違いして女の爪を食べたからだとやや文学的な表現にしてある。
  「サッキング」と「つま先」の関係は絵柄的に見ても、色々な事が想像できて面白い。

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 まず一番最初に想起するのが「つま先」が女のペニスで、口が男の女性器だというみなし。
 まあそこまでいかなくても、このサッキングが容易にフェラチオを連想させるのは確かで、ペニスに見なされる肉体部位が、美しい本体の最下部として位置づけられた不浄で醜い「足」に置き換わっている所がSMチックである。
 (この辺りのchika自身の足への思いは、SMfの中で「薔薇日記・ラバーの靴下」という短編にもちりばめてあるので興味がおありでしたら一読して下さい)

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 次に冒頭の書き出しとは矛盾するのだけれど「足」の形は本当に醜いのだろうか?という反問。
 映画の中ではポチが、一度だけ行きずりで遭遇した麻葉の足が忘れられず、その形を思い出しながら粘土で麻葉の足を作るシーンが出てくるのだが、これが結構説得力がある。
 欧米のフェチフォトには結構、「ラバーを付けた足」だとか「ストッキングに包まれた足」だとか「踏ん張ってつま先が開いている足」だとかのアップ写真が登場して結構、どれもが魅力的である。
 「物の形」と「魅力」は表裏一体のものと考えがちなのだが、それはジェット機などに見られる機能美の価値観ばかりに気持ちが傾きすぎる我々の美意識の虚弱さを現しているのかも知れない。
 魅力とは正に蠱惑であり、蠱惑は「毒」のある所に発生する力であるとするなら「足」も又、魅力的なのだろう。
 例えば話は少しずれるけれど、中国の纏足のことが思い出される。
 纏足の足は、小さければ小さいほど美しいとされ「三寸金蓮」の言葉からは、3寸ほどの小さな足が蓮の花びらにたとえられ賞賛された事が判る。3寸と言えば9センチほどで、顔を洗う時の掌二つの幅にもみたない。
 女性は纏足を維持するために夜も靴を脱がずに休んだそうである。
 彼女たちにとって裸を見られるよりも、纏足靴を履いていない足を見られる方がずっと恥ずかしかったのだとか。
 けれど隠されたものを見たくなるのは人間の性で纏足は当時の中国人にとって非常にエロティックな部分となったわけである。
 しかし寝るときも靴を履いたままという生活では、足も蒸れてかなりのにおいになる。
 当時は、そのにおいこそがセクシーで良いという価値観だったようで、纏足の小さな靴に酒をそそいで飲むのが「粋」だと言われていたとか、、。
 これなど正に、古今東西の差を問わずヒールにもブーツにも潜む共通したフェチ磁力を感じる。

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 話を映画に戻すと、一旦壊れかけた麻葉とポチの関係が、冒頭のポチを「変態」とさげすんだ同僚女性の登場によって修復されるのが、この映画の「フェチ」的面白さである。
 麻葉はポチの為に、自分の素足で練り込んだ「うどん」をプレゼントしようと彼の家に出かけるのだが、丁度、その時、親しげに話をしているポチと元同僚女性に出くわしてしまい出鼻を挫かれる。
 このちょっとしたアクシデントは麻葉に内省の機会を与えることになる。
 つまり自分が、ポチとは「足」でしか結ばれていない事に気づくのである。
 ポチの事をもっと知ろうと、元同僚の女性とプールサイドで自分がこねたうどんを二人で食べながら「あたたとお話をすればポチのことがもっと判るんじゃないかと思って」と話しかける麻葉。
 しかし麻葉に、裸足の足でこねたうどんを食べさせられていると聞かされた女は「気持ち悪い、変態!!」と叫んでその場を逃げ出してしまう。
 映画は、その時に、麻葉が自分とポチの関係を再確認する仕掛けになっているのだ。
 この映画では、究極の性愛カップルは究極の純愛カップルになりえるようである。
 その大胆さ、なかなかオツだと思う。
 ・・大竹一重の足デコレーションケーキには笑ってしまったけれど。