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 久しぶりのヴィヴィアン・ガールズのエントリー。でも今日のはかなり微妙な気分だ。ひょっとしたら、これはもう「フェチの探求」なんて領域ではないのかも知れない、、。

高崎の小1女児殺害:人形に異常な執着 野木被告、放棄迫られ泣き出す/群馬


 高崎市北久保町の県営住宅で昨年3月、小学1年の女児(当時7歳)が殺害された事件で、強姦(ごうかん)致死、殺人罪に問われた隣人の会社員、野木巨之被告(28)に対する第5回公判被告人質問が15日、前橋地裁高崎支部(大島哲雄裁判長)であった。逮捕時に自宅から押収された「美少女フィギュア(人形)」について検察側に放棄を迫られた野木被告はこれまでの落胆したかのような態度をひょう変させ、「あの子たち(フィギュア)を処分することは、私の子供を殺すかのようなものだ」と激しい泣き声で訴えるなど、人形に対する異常な執着を見せた。
 この日先立って行われた弁護人からの質問に対し、野木被告はか細い声で「自分勝手でひどいことをしてしまった。被害者と遺族に本当に申し訳ないと思っている」と事件に対する謝罪を述べていた。
 ところが、続いて行われた検察側の質問で、検察官に「被告の作った『フィギュア』を被害者の遺族は取り上げたいと言っている。放棄しますか」と迫られると、「端から見れば汚い人形だが、自分を支えてくれた大切なもの」と言って泣き出し、「遺族の気持ちも分かるが、私が(被害者を殺害)してしまったように、相手から大切なものを奪ったら後悔するだろう。そんなことしてほしくない」などと頭を抱えて叫んだ。このやりとりを傍聴していた被害女児の母親は、野木被告の態度に憤った様子で、傍聴席から駆け足で退出した。
 最終的に人形の放棄を承諾した野木被告は「くそっ」と漏らしたままうつむきおえつした。閉廷直前、大島裁判長は「人が命を落とすことの重大性が分かりますか。その人はもう帰ってこないということです」と野木被告を諭した。

 人によっては大島裁判長のご託宣が大岡裁きみたいに聞こえるかもしれないが、chikaにはその薄っぺらさが腹立たしく感じる。
 裁判長としてこんな時に「人が命を落とすことの重大性が分かりますか。」とかスカして言うなら、貴方は毎日毎日街頭に立って、今この世界中で愚にもつかない理由でおこなれている侵略戦争に対して非難し続ける方がよほど人の役に立つと言うものだ。
 人を殺す(殺させる)奴は、どんなケースだって、その事の重大性なんか気にはしていないのだ。なぜ人形愛だと殊更にその異常性を論うのか?
 何故、被害者側(正確には検察だと思うけど)は野木被告の『フィギュア』を取り上げようとしたのか。その事に司法の現場はどのような価値判断を示したのだろうか?

 このヴィヴィアン・ガールズを書くきっかけにもなったあの奈良女児誘拐殺人事件が始まった時、大谷昭宏氏がフライング気味に出した「フィギュア萌え族犯人説」がネット上からの反撃を食らっていたけれど、chikaは今でもあの時点で大谷昭宏氏が展開して見せた推測には、氏自身に刷り込まれた偏見を除いて「力」があったと思っている(実際は大外れだったけれど)。
 ではなぜこの事例についてあの時騒いだ人々は何も言わないのだろう。「人形と人の命は比較出来ないから」などという甘ったるい事を言って、事の深部に降りていく覚悟がないのだろうか?

 押井守監督の映画「イノセンス」の最終場面で「お前に人形の気持ちがわかるか」と、主人公バトーに人間の少女に対して罵声を浴びせるというその演出の気持ち悪さに、ヘドが出そうになったchikaだれど、不思議とこの野木被告にその気持ちは被らない。

 勿論、子どもを殺された親の気持ちと、人形を較べられてたまるもんですかという気持ちは当然わかる。一人の目で二つの立場を見るなら被害者側に立つのは当たり前のことだろう。
 しかし少なくともこの文面からは、彼は押井脚本のような概念上の自己中毒を起こしているようには見えない。
 野木被告は本当に病気(本当に人形を愛している)のように思える。むしろ彼の他者への共感力は辛うじて人形愛を通じてのみ支えられているようにさえ見える。
 被害者は正義を執行する者ではない。「復讐したい。仕返しをしたい。忘れたい。」これらは普通に起こる感覚であって、いかに激しく真摯なものであっても、それは「正義そのもの」ではない。
 ない事は判っているのにそれをあたかも周囲(特に権威を持つもの)が、正義の執行のように価値づけて共感しその通りに行動する。すなわちそれがリンチの始まりだ。
 魔女狩りには狩ろうとするムーブメントと、審判者が存在する。魔女狩りを定着させるのは審判者だ。

このエントリーは野木被告を擁護しているのではない。

 裁判官の刷り込まれた偏見を非難している事が判ってもらえるだろうか。現代においては「偏見」の中にもグレードが存在する事が判って貰えるだろうか?
 誰が見てもすぐに判る人権問題上の差別に関わる偏見でさえ、一般的な生活レベルでは克服出来ない人々が多いのだ。それが複雑多岐に渡る価値観・生活様式にまで食い込んだ「偏見」である時、それを一体誰が最もシャープな理性と感覚で見抜く必要があるのか?これについては論を待つ必要などないだろう。

 第一、応報刑罰は現行法では認められていない筈、そういった意味でもこの裁判官の発言には何か非常に不穏当なものを感じざるを得ないのだ。